ドラッカーの教育論
マネジメントの生みの親ドラッカーは教育について次のように述べています。
教育ある人間が社会をつくる
(「プロフェッショナルの条件 ダイヤモンド社」より)
教育ある人間は知識社会における中心的存在となる。ポスト資本主義社会では求心力が必要である。諸々の独立した伝統を共有の価値への献身、卓越性の追求、相互の尊重へとまとめる者を必要とする。これは普遍性をもつ教育ある人間ということである。
明日の教育ある人間はグローバルな世界に生きる。そして同時に教育ある人間は部族化しつつある世界にも生きる。彼等は世界市民となる。
学校が劇的に変わる
(「イノベーターの条件 ダイヤモンド社」より)
知識社会において学校に求められる要件
① 読み書き以上の能力、高度の基礎教育を与えなければならない。
② 内容に関わる知識とともに方法に関わる知識。知識とノウハウを与えなければならない。
③ あらゆる学生、生徒に継続学習の習慣を与えなければならない。
④ すでに高等教育を受けている者、あるいはなんらかの理由で高等教育を受けられなかった者に門戸を開かなければならない。
⑤ 他の機関と協同する教育のパートナーとならなければならない。
教育は社会全体に広がらなければならない。企業、政府機関、NPOなどあらゆる組織が、学び、教えるための機関となる。
高度の基礎教育を授ける
あらゆる時代を通じて、学校は、教えを受けることによってではなく、学ぶことによって身に着けられるもの、練習、反復、フィードバックなど行動で学ぶべきものを学ばせることに果てしない時間を投入してきた。小学校で教える科目だけではない。大学の講義でさえ、科目の多くがそのような性格のものである。国語、数学、歴史、生物、工学系の科目のほとんど、さらには医療系の診断、神経外科などの科目はパソコンによってもっともよく学ぶことができる。
本来教師の果たすべき役割は、動機づけし、指示し、激励することである。教師はリーダーとなり相談相手となるべきである。
高度の基礎教育には、子供たちに自信と能力を与え、何年かたって知識社会に出た時、成果をあげる何ごとかを成し遂げられるようにするという責務がある。
不可欠となる継続学習
これまでの教育は、かけ算や歴史など内容に関わる知識を意味した。しかし、これからは方法に関わる知識、今まで学校では教えようとさえしなかったものが必要になる。
特に知識社会では、学習の方法を身につけておかなければならない。内容そのものよりも、継続学習の能力や意欲の方が大切である。
ポスト資本主義社会では継続学習が欠かせない。学習の習慣が不可欠である。
強みに焦点を合わせる
自己実現とは、以前よりも下手でなく行えるようになることではない。すでに上手に行えることを、はるかに上手に行えるようになることである。
学校が教育を独占してはならない
教育とは、もはや学校だけが行うものではない。学校がパートナーの一方となる共同事業となっていく。学校は、互いに競走する多くの教育機関の一つにすぎなくなる。
今後は、成人の高等教育についても、学校と雇用主は協力していくことを学ばなければならない。
学校の責任
私たちは、よい学校とかよくない学校と言う。一流校とか一般校という。日本では一握りの大学の卒業生が有利になっている。就職の機会も多い。フランスではグランゼコールが権力と権威をめぐって似た位置にある。イギリスではオックスフォードとケンブリッジが、もはや絶対的でないとしても依然として高等教育のスーパーパワーになっている。
大学にはその他、ありとあらゆる種類の尺度がある。博士課程に進んだ者の割合とか図書館の蔵書数など…、ところが私たちは「学校の成果が何であり、何であるべきか」との問いを発してさえいない。間もなく、この問いについて考えなければならなくなる。
先進国では学校に対する支出が1913年頃の対GNP一人比2%から、今日の10%へと急増した。
やがて私たちは「生徒たちが勉強せず、できが悪いので」との校長の言い訳を受け入れなくなる。知識が中心的な資源となった社会においては、勉強しない生徒やできの悪い生徒は学校の責任である。仕事のできる学校とできない学校があるだけである。
しかも競走は、学校と非学校(ノン・スクール)との間で行われるようになる。今後は多様な機関が、それぞれ違う教育方式でもって、挑戦者としてこの分野に参入してくる。
ポスト資本主義社会において、知識が唯一の資源となるに伴い、知識の生産兼流通業者たる学校の社会的な役割とその独占的な地位は、いづれも挑戦を受ける運命にある。
そして挑戦者の中のある者は必ず成功する。
何を教え、何を学ばせるか。どのように教え、どのように学ばせるか。学校の顧客とは誰か。社会における学校の役割いかにあるべきか。これらの問いに対する答えのすべてが、今後数十年の間に劇的に変わってゆく。
学校ほど根本的な改革を迫られている機関はない。
しかし、最大の変化、しかもまだ何の準備も行われていない変化は、学校が成果を約束しなければならなくなるということである。
学校は、その決算、つまり責任を負うべき成果、報酬を得るための成果を明らかにしなければならなくなる。学校は責任を負うようになる。